緩やかな丘の頂上を目指して一気にかけ上がり、振り返って来た道を見渡す。
前よし、後ろよし。ついでに右も左もよし。人影は見当たらない。天候も良好。今日は絶好のゴロゴロ日和だ。

人類が築きあげてきた文明が滅び、不便なことこの上ない世界。しかし手付かずの大自然を目の前にしてこれを堪能しないなんてあり得ない。
子どもの頃のように服が汚れるのもずぶ濡れになるのも、何もかも構わず日が暮れるまで遊び尽くしたい。
そんな願望が叶うはずもなく、全人類復活のためみんな日夜懸命に働いている。私も例外なくその一人に含まれているが、今日はなんと貴重な休日のようなもので、体を休めるなり気分転換するなり……つまり、好きなことをして良い日なのだ。
想像するだけで笑ってしまう。このなだらかで丁度良く芝生の生えた坂の上から、下まで一気に転がり落ちる。絶対に楽しいに違いない。
早速寝転がって反動をつけると、そのまま重力に従った。


「はー、楽し……」

雲ひとつない青空を見上げながら思わず口をついて出たひとりごと。
髪はぐしゃぐしゃで葉っぱのくずやらなにやらがたくさん引っ掛かっているだろう。服や肌も泥がついてるかもしれない。そんなこと、どうでもいい。
よし、もう一回やろう。
起き上がろうとすると、聞こえて良いはずのない声とともに、何かの影が横たわる私を覆った。

「大丈夫!?」
「ヒッ」

喉がひきつって言葉が出ない。一人でアホみたいに遊んでいるのを見られた。しかも、よりによって。

「悲鳴が聞こえたから……怪我はなさそうだね。良かった」

これは、親切心なんだろうか。手を差し伸べて困ったように笑っている。
この人だけには。羽京だけには、見られたくなかった。

「だ、大丈夫」

羽京の手を取るなんてとてもじゃないけどできなくて、自分の力で起き上がった。
彼の前だけではなく、誰の前でもこんな所を見せたことはない。それどころか笑ったり泣いたり怒ったり、そういうフツウの人間として当たり前にできるようなことも私には難しかった。
人付き合いは苦手だけど手だけは動かせる人間としてここにいさせてもらっているようなものだ。
羽京はそんな私とは正反対で、誰にでも分け隔てなく優しくて誠実である。
人間というのは自分が持たないものに惹かれてしまうようで、私もそうだった。つまるところ、無愛想な私は羽京に対して密かな憧れを抱いていた。
憧れの人にこんな姿を見られるなんて一生の不覚。今まで以上にまともに話せなくなってしまうだろう。

「あ、待って。髪に葉っぱがついてる」

放っておいてはくれないらしい。自分で取れるとつまらない意地を張ってしまう私のことなどお構いなしに、羽京は次々と髪に引っ掛かっている草を取り除いていく。

「後ろ向いて。あれだけ盛大に転がったんだもの、自分じゃ取れないと思うけどな」

顔を見られていないのがせめてもの救いか。痛かったらゴメンと言いながらも髪をすかれてかき分けられて、羽京の手は意外と遠慮がない。

「楽しかった?」

ああもういやだどうして。
たまらずしゃがみこむと、彼も一緒になってしゃがんだようで、髪を弄る手の動きが止まる気配は一向にない。

「恥ずかしがらなくても良いのに」

そう言いながら彼の声は笑いを隠すことなく震えている。
振り向いて睨み付けたつもりだったのに、彼はとうとう我慢できないと笑いだした。

「……笑いすぎ」
「あはは、ゴメンゴメン……!はぁ、だって、違うんだ。いきなりこんなこと、信じてもらえないかもしれないけど。なんだか嬉しくて」

信じてもらえないというか、よく分からない。
私の顔にありありと出ていたのか、彼は勝手に解説を始めてくれるようなのでそのまま黙っていた。

「名前ちゃんが……ここが、この世界が嫌な訳じゃないんだって分かって安心したんだ。あ、まだ付いてる」

喋ることも髪に絡まった芝生の残骸を取るのも止めないらしい。

「……というのは正直建前なんだけど。はい、全部取れた。もう一回する?」
「ううん。もういい」

転がる度に彼に毛繕いをされたのではたまったものではない。今日はもう解散だ。

「あの、このことは誰にも……」
「言わないよ。まさか名前ちゃんともあろう人が、一人で坂を転がり落ちて子どもみたいにはしゃいでたなんて」
「……羽京って本当は意地悪なんだ」

普段は柔和な大人の表情をしている羽京が、今は悪戯っ子のような顔で私を見ている。

「意地悪かぁ。そんなつもりはないんだけど」

今更苦笑したってダメだ。もう絆されたりしない。たとえ、私の乱れた前髪を整える手つきがどれだけ優しくてもだ。
……多分。

「今日のことは君と僕だけの秘密。そう簡単に誰かに知らせたりなんかしないよ。やっと見つけた隙なんだから」

私のつまらない意地も淡いようで重い気持ちも、羽京には全部筒抜けなんだろう。
髪を整えながら時おり首筋や耳に触れた彼の手が、どうしたって制御できない私の体温を感じていたに違いないのだから。

「……君の言うとおり、僕は意地の悪い人間かもしれないな」

ひたすら俯くしかない私の前髪の分け目にそっと、何かが柔く触れた。



2020.8.16


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